ロシア語学習が進んでいる影響なのか、最近ロシア語で色々検索しまくっている私…。今まで知らなかったようなロシアの地名とか、また勉強しようとは思ったこともなかったロシアの歴史も徐々に理解し始めてきているような気がする。
私の先祖は父方も母方も内地(本州)から来たと言われているけれども、私は北海道人。
(写真は、右の毛皮を着ている男性が、偉い人のようにも見える…)
Reference Site
https://humus.livejournal.com/4912007.html
一方で、最近は北海道では外国人が多く来るようになったこともあってか、北海道全体でアイヌ文化を推進する動きも強くなりつつある。
私が小学校の時に、ニュージーランドから転校してきた白人の兄弟がいたけれども、彼らも日本人の子どもたちに溶け込めていなかった。というのを私は過去に見てきた。
これも少数派に対する差別なのである。特に子供の場合、自分では理由がわからないまま差別してしまうことが多く、親が正すべきであろう。
ブロニスワフ・ピウスツキについて
この人物が、当時ポーランドの社会主義活動家、文化人類学者だったブロニスワフ・ピウスツキ(1866年11月2日 – 1918年5月17日)だ。彼は、流刑された樺太(現サハリン)地で、少数民族の写真を残すことに勤しんだと言われている。
1886年、サンクトペテルブルクでサンクトペテルブルク大学の法学部に入学。 1887年、アレクサンドル3世暗殺計画(この時処刑された首謀者の中にはウラジミール・レーニンの兄アレクサンドル・ウリヤーノフがいた)に連座して懲役15年の判決を受け、樺太へ流刑となる。とウィキペディアでは紹介されている。
彼は流刑地のサハリンで、当初、大工として働いていたそうだが、その後、原住民(アイヌや、二ヴフなど)の子供たちへ識字学校を作ってロシア語や算術・算盤教育を始めたそうだ。
ちなみに、識字学校の教師の中には、日本と樺太アイヌの間に生まれた千徳太郎治がいたそうで、その後、彼は警察の事務局員となり、ニヴフ(ギリャーク)との交流が増えるようになる。という、ストーリーがある。
また、1902年(明治35年)にアイヌとウィルタ(オロッコ)の調査のため樺太へ戻り、写真機と蝋管蓄音機を携えて資料収集を行う。
ちなみに、1900年と言えば、パリ万博が開かれた年。また、この1902年というのは、日露戦争が勃発する 1905年の3年前ということになる。
なので、日露戦争前ということは、まだこのサハリンの南側(南樺太)が、日本の勝利、つまりポーツマス条約によって日本に割譲されていなかった時代だということ。つまり、ロシア側にもアイヌはいるというわけ。
そんな激動の時代に、この写真は撮影されたのである。
ちなみに、彼は日本でも、アイヌ研究家として知られており、祖国のポーランド政府から2013年10月19日に、白老町のアイヌ民族博物館に胸像が贈られるほど、日本のアイヌ関係者の中でも知られている人だ。
またこのブロニスワフ・ピウスツキというアイヌ研究家の弟(ユゼフ・ピウスツキ)は、のちに、ポーランド初代国家元首になる。つまり兄弟二人そろって凄まじい人たちだ。
で、以下の写真は、私が知る限り、北海道ではなくサハリンで撮影されたものだと思う。
①家族3人で撮影
息子さんの目はキツイイメージがあるので、お父さんとは似ていないような気もする。
ちなみに、3人とも、そこらへんにたまにいそうな感じもしないこともない。もう一度言うけれども、真ん中のお父さんの表情が印象的すぎる。
よく本を読みそうな顔にも見える。(勝手な想像)→けれども、この時代、サハリンに本はなかったはずである(あってもロシア語の本を一部の人たちが読めた。という感じではないだろうか?)
いずれにしても、シベリアなどのツングース系もちょっと混ざっていそうな感じがする。
「なぜ日本人にソックリ?「ツングース系民族」の顔が西洋でモテる理由」
②うちら仲良しだもーん!の女の子たち
女の子たち。左上のお姉ちゃんの顔が神秘的すぎてならない。
若干だけど、私が以前にブログでも紹介したユダヤ系のポーランド人が描いた日本人女性の顔に似ているような気がした。これって気のせい!?→この記事の一番下のほうに、統合した記事。
後ろのお姉ちゃん二人、濃い顔と薄い顔が並んでいて、その対比がまた面白い。( ´艸`)
③年頃の男子二人組参上!
北海道にいたときは、オホーツクアイヌという呼び方を聞いたことがあったけど、もしかしたらサハリンに住む彼らが、まさにオホーツクアイヌなのかもしれない。
けれども、アイヌ民族は、13世紀ころに突然姿を消した「オホーツク文化」と強いかかわりがあると指摘されている。
以下、ウィキの抜粋
近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。オホーツク人のなかには縄文人には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプであるmtDNAハプログループY遺伝子が確認され、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性も判明した。
「ハプログループY」は通常現在の日本人(縄文人にもない)にはないが、アイヌ民族にはあるということだ。また、ハプログループYが、一番多いのは二ヴフ(ロシアの民族)であり、彼らは韓国人よりも、中国北方人よりも、平らな顔をしている。
「韓国人とは違う?日本人にある遺伝子、Y染色体(父系)とミトコンドリア(母系)「ハプログループ」を調査。あなたは、どれに当てはまりますか?」
そのハプログループYが、まさにオホーツク文化が栄えていた時期に生きていた人たちのDNAで、東北などからやってきた縄文人などが北海道に行き、彼らと交わったのが現在のアイヌなのではないか。とも思ったりするのだ。
④ちょっと怒っている??男子
⑤おっとり男性二人組!
Reference Site
⑥仕事仲間3人組!?
Reference Site
真ん中の顔は、なんだろう、偉い人のような顔にも見える。気のせいだろうか?真ん中にいるからそう見えるだけ?人相ってやつ?目がキリっとしているのが特徴。
昔から、出世する人は耳が他の人と違うとか、顔が違うとか言われているのだし、そういうこともあり得るのかも?なんて…。
ちなみに、左側にいる男性は、北海道旭川市出身でもある元政治家杉村太蔵にも似ていないだろうか?右側の男性も、現代日本人にも結構みたりすることがあるかも。
⑦イケイケ若い男子二人組!
Reference Site
https://fishki.net/1485556-aborigeny-sahalina-na-snimkah-bronislava-osipovicha-pilsudskogo.html
この二人の横顔を見比べたときに、顔の骨格が全然違うことに気づく。ま、現代でも同じ日本人なのに顔の骨格が違う人はたくさんいるのと同じで、アイヌ=同じような顔というわけではなく、アイヌとともに生活をして同化していった和人などもいたのではないか?と思ったりもする。
アイヌ=同種と思われがちだけれども、日本にはいろんな人がいたわけで、そういう本州の人たちが北海道でアイヌ民族の文化に入っていき、同化していった可能性もある。と歴史も何もしらない私が勝手なことを言ってしまったわ…。
けど、DNAの分布など見てみても、やはり日本人に存在しない、「ハプログループY」をアイヌが持っているのだから、ロシアの北方民族(モンゴロイド系)とミックスしたり、いろんな人たちを吸収して同化していったのではないかと私は考える。
⑧既婚されていると思われる女性
アイヌの女性は昔、口の周りに刺青をしていた。おそらく、口が大きく見えて美しいという発想なのかもしれない。
マルチリンガールのコメント
今回色々なアイヌの写真を見て、感じ取るものが多かった。特にこの記事の次は、アイヌだけでなく、ニヴフ、ウィルタ、オロチなど色々な民族のことも書いていきたいと思う。そのうち、私、民族を研究しにロシアに留学していたりして…( ´艸`)
FBでお友達にシェアしたところ、以下のコメントをいただきました!
武田さん
北海道という県名ではなく、「アイヌ県」にしてほしいですね。 東海道、西海道、南海道、北海道、何れも地域を表す言葉です
北原さん
よくお調べです。
Hidekiさん
北海道各地の民族資料館や、アイヌ民族博物館に行って見ると、いろいろと面白い事が見えてきます😃。南方の海の貝輪だったり、アイヌ錦だったりと。。
坂本さん
最近、似非アイヌが国の補助金目当てに増えているようです。何でも、北海道独立を画策しているようで、大量に水源地を買っている中国との関係も疑われています。沖縄も中国が触手を伸ばしていますので、沖縄同様北海道はこれからの動きが気になります。
五太子さん
そういや昔記録ドキュメントでサハリンや東シベリアにはサーモンの皮で上着を作るのがありますねその現地の人たちが(ロシア人ではない)見た目アイヌの人たちと全く同じような人たちですね
以下、おまけ記事です。(同じころに他のポーランド人によって描かれた絵もこの記事に統合することにしました)→別の記事を統合しているので口調が変わっていますが、お気にせずに(;^_^A
ポーランドのユダヤ人「マウリツィ・ゴットリープ」が、1800年後半に描いた日本人女性の顔が神秘的過ぎてワロタ!
私の人種研究もついに、ここまできたか…。という。( ´艸`)
日本人女性の写真を探していたら、いきなり目に飛びついてきたこの女性の絵。出どころなど全然わからなかったのですが、よくよく調べてみると、どうやらポーランド系ユダヤ人?ユダヤ系のポーランド人?が描いた絵のようです。
絵の周りがゴールドっていうが、なんともゴージャスで、一度みてしまうと、なにか忘れられなさそうな感じのする絵でもある。と思ってしまっているのは私だけだろうか?(笑)
ちなみに、1879年に描かれたこの日本人女性の絵ですが、なにやら私的にはアイヌの女性にも見えてくると感じてしまった。
1800年後半といえば、江戸時代が終わり明治になったころ。ですが、そのとき外国を訪れた白人男性には、日本人はどのように映ったのだろう?
と想像しながら、この絵を見ている私。そういうことを考えると、なんだか違う世界に行ってしまうような感覚に襲われる…。
日本の古い写真をみても、狐目の人のほうが多いような気もするので私からすると、こういう、狐目ではない女性の写真はなぜか新鮮にも映る。ということからこの記事の作成は始まった。
で、そういう狐顔?今でいえば塩顔?ではなく、タヌキ顔の女性を描いた人が、ユダヤ系のポーランド人である、この人なのだから、余計に意味深く感じる。
まさか、あんたら二人は恋に落ちたとかじゃないわよね?なんていつもの得意の妄想に走り出す私…。
彼の名前は、マウリツィ・ゴットリープというようだ。どうやら日本語のウィキペディアにはでてこないのだけれども、日本でも一部の人達には知られているよう。
彼は、1856年2月21日に、ウクライナ ドロホブィチで生まれたそうだ。現在の上の写真は、イスラエルのテルアビブ美術館にあるそう。
確かに濃いもの同士似合っているかもしれない。けれども、女性のほうは、彫が深いというよりも目が大きいといった印象かも知れない。
またポリネシア人のように見えなくもない。写真ではなく絵なので、実際の顔と近いのかはわからないけれども、現代の日本人にもいそうな顔だし、やはりかなり実物を再現した絵なのかもしれない。
絵って本当に素敵だなと思う。
写真と違って、どうしてこの人はこのように描いたのか?まで想像してしまうからである。
また最近はメールで済ませる人が多くなってきたけれども、やはり何年も前の手紙などをみたりすると、あの時の紙にあの時の字。のように、なんだか意味深い感じがする。
現在の私は芸術に時間を費やしているほど余裕はないけれども、今後もっと時間に余裕ができたら、ぜひ、過去の絵などをもっと見てみたいと思います。
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