私のブログでは天皇ネタは結構多いものの、今上天皇(きんじょう)→(現在の天皇)のネタばかりであり、過去の天皇についてはあまり触れていなかった。また、天皇と言えば男性!というイメージがあるけれども、日本の歴史を振り返ってみると、日本には、歴代10人の女性天皇がいる(女系天皇ではない)。
厳密に言うと、同じ女性が二回天皇になっているケースが2つあるので、8人というのが正しいかもしれない。
この記事ではそんな歴代女性天皇に関して書いていきたいと思う。
また、よく女性天皇と女系天皇の違いについて話題になるけれども、これはものすごく簡単で、今の皇室に喩えて言うのであれば、愛子さまと、誰かが結婚し、その子どもが天皇になるとすれば、それが女系天皇ということになる。愛子さまの子どもが男子であり、女子であれ、女系の子孫ということなのだ。
つまり皇族出身の女性の子孫となると、女系天皇となるわけだ。けれども日本の歴史上、今まで続いてきた天皇はみな男系天皇であるので、それを守っていきたい。何百年も続いてきたこの伝統を近代に入って数百年しか経っていないのに簡単に変えてしまっていいのか?ということで、問題になっている。
また、現在皇室が危機に瀕しているのは、旧皇族(きゅうこうぞく)と言って、1947年(昭和22年)に皇籍離脱した11宮家51名の元皇族の存在である。
これらの皇籍を離脱した旧皇族をもう一度復活させることも、男系を守る上のひとつの選択肢とも考えられると思う。
例えば、
衆議院議員 河野太郎公式サイトでも書かれているとおり、男系を守るために、旧皇族男子を皇族の内親王殿下または女王殿下に婿入りさせたり、または側室を復活させたり、また人工授精などの最新のテクノロジーでそれを継続させたとしても、国際的にそれは本当に正しいのか?と問われてしまうという問題もある。
また現在皇室には、19人しかいなく、どんどん少なくなってきている。日本の歴史を勉強しても分かる通り、天皇家は日本の歴史の始まりとともにある存在なので、これを簡単に途絶えさせてしまっていいのか?ということは、正直ながら日本の多くの人が関心すらない状態。
高野宮妃久子殿下の娘、綾子女王陛下は一般人とご結婚され、皇室を離脱することになると言われている。また、眞子さまがもし小室圭さんと結婚すれば、皇籍を離脱することになるので、皇室のメンバーは減ることになる。
ところで、国民の議論が進んで天皇制を女系でもよいという話になれば、愛子さまが天皇にならないとも限らない。
ということで、女系ではないが、男系として日本で天皇を務めていた女性天皇のリストをこの記事では紹介したいと思う。
日本は結構古くから女性がトップにいた。と実感していただければ幸いである。
①推古天皇(第33代)
誕生 554年(飛鳥時代)
崩御 628年4月15日
在位 593年1月15日 - 628年4月15日
推古天皇は、第33代天皇であり、第29代欽明天皇(きんめいてんのう)と、蘇我堅塩媛 (そが の きたしひめ)の娘である。
推古天皇の前は、32代崇峻天皇(すしゅんてんのう)で、次の天皇が、34代舒明天皇(じょめいてんのう)である。
初めて女性で天皇に就いた人物であり、また聖徳太子を政に参画させたことでも有名。
以前、聖徳太子が描かれていた日本の1万円札があったけれども、女性の時代?が日本に到来したとき、もしかしたら推古天皇が1万円札の肖像画になっているかもしれない…。なんて変な想像をしてしまった…。( ´艸`)
また、外見的な特徴として、容姿端麗だったことも有名。
もう一つ復習しておきたいのは、日本人なら誰もが知っているであろう聖徳太子とは、推古天皇の甥にあたる厩戸皇子(聖徳太子)である。
つまりこの時代に、聖徳太子はいろいろなことを成し遂げたということになる。
・603年→冠位十二階(この制定により人材登用の道が開かれる)
・604年→十七条憲法(官僚や貴族に対する道徳的な規範などがメイン)
②皇極天皇(第35代)
誕生 594年(飛鳥時代)
崩御 661年8月24日
在位 642年2月19日 - 645年7月12日 / 655年2月14日 - 661年8月24日(合計9年ほど)
34代舒明天皇(593年~641年11月17日)の皇后。舒明天皇の死後に即位。
皇極天皇は斉明天皇として、第37代天皇(655年2月14日 - 661年8月24日)も務めている。つまり、もう一度天皇に返り咲いていることになる。
蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺され、大化の改新となり退位。けれども、その次の孝徳天皇の死後、重祚(ちょうそ)→再び天皇に返り咲くこと、で、斉明天皇としても在位したということなのだ。
一度天皇を辞めて、また次の天皇の次に天皇になることを重祚(ちょうそ)というのだけれども、そもそも現代人には、この感覚はおそらくわからないかもしれない。
またこの天皇で、有名なことと言えば、蝦夷征討(せいとう)、百済救済(百済復興)という、つまり本来の土着の日本人→蝦夷(えみし)を蔑ろにして朝鮮半島のひとたちを特別扱いしたことになる。といえば、わかりやすいだろうか?
私のブログでも前回紹介したけれども、日本は弥生人と縄文人に分かれていて、人種的には全く別だったと考えられている。
けれども弥生系には、中国や朝鮮からきた渡来系弥生人と日本に古来から住んでいた弥生人がいる。という考え方が最近の研究では主流なのだけれども、そこには素人の私は首を突っ込まないで語っていきたいと思う。
つまり日本にいた土着の縄文人は、毛深い感じで、当時朝廷から排除されていた。と言えばわかりやすいだろうか。
そのため、日本の歴史上、東北エリアは、蝦夷(えみし)と呼ばれていたし、蘇我蝦夷(そがのえみし)など、悪者にはすべて蝦夷(えみし)という名前を付けている。
北海道が蝦夷(えぞ)だったのも、そういう野蛮な人たちが住んでいるという考え方からだと思われる。
征夷大将軍の夷も、もとは蝦夷を征するものがなれたから、そういう名前になったという説もあるくらいだ。
「世界に存在していた国 TOP10に、日本の「蝦夷共和国」がランクインしていたことと、東北の蝦夷とアイヌの関係」
皇極天皇としては3年、斉明天皇としては6年、合計9年ほど天皇の座についていたことになる。
③持統天皇(第41代)
誕生 645年(飛鳥時代)
崩御 703年1月13日
在位 690年2月14日 - 697年8月22日(約7年間ほど)
天武天皇の皇后であった。夫である天武天皇の死後、即位。第42代文武天皇(息子)が天皇になる間、7年間ほど即位。
ちなみに、気付いてしまったのだけれども、この絵を見て気になるのは、眉毛の上にまた眉毛?がある点ではないだろうか( ´艸`)
眉毛の上に眉毛?これは、インターネットで調べていると、このころの上流階級は眉毛を沿って、眉毛の上の位置にわざわざ眉毛の刺青などをいれていたそうだ。
人の顔って、眉毛と目の間を離すと若く見えるので、そういう意味でのことなのかもしれない…。なんて思ったり…。
持統天皇の功績といえば、
・藤原京の造営
・飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)の施行
・律令体制の基礎を固めた
などがあげられる。けれども、これらの功績のほとんどは、天武天皇から受け継いだものという考え方もある。
④元明天皇(第43代)
誕生 661年(飛鳥時代 - 奈良時代)
崩御 721年12月29日
在位 707年8月18日 - 715年10月3日(約8年間)
藤原京から、平城京(奈良)に遷都したことで有名な天皇。また、草壁皇子(くさかべのみこおうじ)と結婚。つまり、血のつながったもの同士の結婚ということである。つまり、相手が皇族出身の男性なので、女性天皇でもいいというわけである。
2人の子どもは、父方の皇族DNAを受け継いでいるからだ。
けれども、普通皇族出身の草壁皇子が天皇になるべきでは?とか、元明天皇の息子でもある、文武天皇が、元明天皇よりも先に天皇になっているのはなぜ?
という疑問もあることだろう。
ここは以下を読んでいただきたい。当時の健康状態や、男性が天皇になることで敵を増やすなど、様々な状況が入り混じっている。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10146400205
草壁皇子(662年ー689年5月7日)の父は、上にも書いてある天武天皇と持統天皇である。天皇同士の子ども?と思った人は、上の文章をもう一度読み返してほしい。皇后が天皇の死後に天皇に即位しただけである。
それにしても、この元明天皇、鼻翼が広い。つまり鼻がデカい!!なんだろう、勇ましさを感じたのは私だけ?と言っても、絵でしか印象はわからないので…。
⑤元正天皇(第44代)
誕生 680年(奈良時代)
崩御 748年5月22日
在位 715年10月3日 - 724年3月3日(約9年ほど)
父は、草壁皇子で、母は元明天皇である。この草壁皇子と、元明天皇の間には3人の子どもがいた。そのうちの一人が、元正天皇である。もう一人が、文武天皇である。
でも、なぜこの時点で男性の文武天皇が即位しなかったのか?というのは、元正天皇が在位した715年、すでに文武天皇(683年6月15日~707年7月18日)は崩御していたからである。つまりこの世にいなかったため。
また、これまでの女性天皇は、皇后や皇太子妃であったのに対し、この元正天皇は、結婚経験がなく、独身で即位した初めての女性天皇である。
首皇子(第45代聖武天皇)の成長を待ち、724年に、聖武天皇に譲位。9年ほど在位してたことになる。
⑥孝謙天皇(第46代)
誕生 718年(奈良時代)
崩御 770年8月28日
在位 749年8月19日 - 758年9月7日
孝謙天皇も重祚して天皇に返り咲いている。第46代孝謙天皇の次の次、第48代称徳天皇(764年11月6日 - 770年8月28日)
仏教を深く信仰し、752年に大仏開眼供養を挙行したことは有名。当初、藤原仲麻呂を用いたが、のちに悪役でも知られる僧侶の道鏡(道教じゃないよ)を重用したことも有名である。
孝謙天皇としては、9年ほど在位し、称徳天皇としては6年ほど在位したので合計15年ほど在位していたことになる。
その時の世界のトップと言えば、現在の中国では、唐の第10代皇帝、粛宗(711年10月19日~762年5月16日)だろうか。楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った玄宗の在位期間(712年9月8日 - 756年8月12日)とも近い。
またフランスとドイツが一緒の国だったフランク王国では、ピピン3世(在位751年 - 768年)であった。
日本の女性が天皇に立て続けになったこの奈良~平安までの時代は、世界にも類を見ないのではないか?と歴史素人の私は今思ったりもした…( ´艸`)
また、孝謙天皇(称徳天皇)が、一番女性天皇の中で在位数が長いかもしれない。なんていったって、合計15年も在位していたのだから…。
⑦明正天皇(第109代)
誕生 1624年1月9日
崩御 1696年12月4日
在位 1629年12月22日-1643年11月14日(14年近く)
第108代後水尾天皇の娘である。女性の天皇が、871年ぶりくらいかに復活したという感じだろうか。また、江戸時代では初めての女性天皇。
在位数は意外と長い。というのも特徴。あと、現在の韓国人女性のように目は吊り上がり、眉毛は困ったちゃん眉毛になっているのも面白いところ。
また、明正天皇は、7歳で践祚(せんそ→天子の位を受け継ぐ)した理由には諸説があるが、私自身も、深く掘り下げることは現状できない。
以下参考になるのではないか?なぜこのタイミングでいきなり女性の天皇が誕生したのかも、日本ではあまり知られていないというか、話題に挙げる人もまた少ない。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10174168370
また、もう少し調べたところ、このころ、紫衣事件(しえじけん→後水尾天皇が幕府に図らずに与えた紫衣を、1627年に幕府が取り上げた事件で、紫衣とは高僧に与えられる紫色の袈裟・法衣)というのがあり、それが原因で女性の明正天皇に譲位したということになってるようである。
というのも、幕府は天皇が紫衣を高僧に与えるようなことを一切禁止にしたにもかかわらず、天皇は高僧に紫衣を授けたりしたことから、対立になり、天皇側が譲歩したような感じなのだろうか。
で、もっと調べてみると、
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。となっており、つまり朝廷よりも江戸幕府のほうが上だったというこの当時のパワーバランスがうかがえる。
⑧後桜町天皇(第117代)
誕生 1740年9月23日
崩御 1813年12月24日
在位 1762年9月15日 - 1770年5月23日(8年近く)
読み方は、ごさくらまち天皇である。イケメンの桜町天皇(1720年2月8日~1750年5月28日)がいたので、桜町に後がついているのが特徴。
桃園天皇が急死後に即位した江戸時代では2人目の女性天皇。女性の天皇としては、ここで最後になる。つまり、江戸時代の260年間に女性天皇が2回現れたことになる。
またこの時期、イギリスでは、ハノーヴァー朝のジョージ3世がイギリスの王であった。1707年、グレートブリテン王国になってからはじめて女性の君主が誕生したのが、ヴィクトリア女王(1819年5月24日 - 1901年1月22日)だということを考えれば、女性が君主であったという点からすれば、イギリスより日本のほうが進んでいることになる。
また、後桜町天皇は、女性天皇としてはラストエンペラーである。
このように、掘り下げてみれば日本にはこれだけの女性天皇がいた。愛子さまが天皇になる可能性があるかどうかはわからないけれども、悠仁さまに何かあった場合、そういうこともあり得るのではないだろうか。
寧ろ、悠仁さまにかなりのプレッシャーがかかっていることは間違いない。かといって、伝統的なものを継承していくという日本の今まででのスタンスを貫くということも重要なので非常に難しい問題であると思った。
ちなみにタイトルは TOP10 となっているけれども、厳密に言えば8人であるし、けれども、今までの歴史を振り返り、125人の天皇がいたとしたら、10人は女性である。ということは間違いではない…。ちなみにランキングではないけどね( ´艸`)