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日本の旧華族(貴族)階級の頂点「公爵」リスト TOP19

2018年7月18日

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日本の旧華族(貴族)階級の頂点「公爵」リスト TOP19

2018年7月18日


この記事では、華族(貴族階級)の頂点である公爵(Prince)について書きたいと思う。

華族とは、明治に入ってから作られた近代日本の貴族階級のことである。1869年から終戦後の1947年まで続いた。

大政奉還、廃藩置県が行われる中、日本をヨーロッパのような近代国家に変えるべく、武家や公家というものがなくなった。その中で、もともと、

・公家=京都
武家=江戸

という、お互いあまり協力関係になかったもの同士が、ひとつの華族(貴族)として、東京に住むことになるのだ。

公家は、朝廷に仕える者であり、武家は武士の家筋であり、お互いまったく違うもの同士である。

日本の歴史上はじめて、公家も武家も一緒くたにされてしまう。それが、華族である。

1886年1月(明治19年)における華族の人口は3419名。その頂点に君臨する公爵(Prince)の地位につけたのは、たった19名である。

ちなみに、英国の侯爵は、Prince ではなく、Duke である。

「現存する英国(イングランド・アイルランド・スコットランド)貴族の頂点、公爵 TOP30」

華族、その中でも頂点に君臨する公爵をしっかり理解するためには、まず公家と武家のことをきちんと理解していないといけない。

公家(くげ)といえば、平安中期以降、摂政・関白に補任(ぶにん)される貴族の家で、藤原北家藤原四家の一つで、天皇家に最も近い)のことである。

で、藤原北家は、藤原四家のうちのひとつであり、もともとは、藤原鎌足(ふじわら の かまたり)→中臣鎌足(なかとみ の かまたり)とも言う。つまり、鎌足を祖とする氏族である。

つまり、これからリストに出てくる19人の中の多くは、もとを辿れば、藤原鎌足に行きつくものも多い。

なぜなら、日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖の末裔だからである。

これは、ヨーロッパでも有名なハプスブルク家よりも、古い氏族(同じ祖先から出た(豪族の)一門)である。

「ハプスブルク家、ブルボン家、ザクセン=コーブルク=ゴータ家。現在もヨーロッパに存在する貴族」

そして、ここで注目なのが、その藤原北家が5つに枝分かれしていった。それが、

五摂家(ごせっけ)と言われていて、以下に分けられる。以下の五摂家は、鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)に枝分かれしていった。

・近衛家
・九条家
・二条家
・一条家
・鷹司家

これって昔のことじゃないの~?なんて思っているかもしれないけれども、その鎌倉時代の五摂家が、なんと現代の皇室などにも、繋がっている。





で、次に武家に行こう。

武家といえば、簡単に言えば徳川家などのことを指す。そもそも武家とは、戦いをするものであって、もともとは兵と呼ばれる時代もあったくらいだ。(時代によっても少し違うが、公家とは全く性質が違うというふうに、ここでは覚えておくと楽かもしれない)

例えば、武家政治とは一般的に、12世紀後半の源頼朝による鎌倉幕府の設立から1867年(慶応3年)の徳川慶喜による大政奉還までの約680年間に渡る武家による政権。を言うけれども、それらの末裔たち、例えば徳川家などが、華族における公爵に選ばれている。

で、その公爵のランクは華族(貴族階級)における頂点であり、たった19名である。

①公爵
②侯爵
③伯爵
④子爵
⑤男爵

タイトルは、ほぼ、イギリスの貴族のランクを真似している形となっている。

「世界の王室(皇室)と、貴族における階級(爵位)と、天皇、国王(女王)、王子(皇太子)、大公、公爵、侯爵、 伯爵、子爵、男爵の違い」

で、この記事を書いた理由は、明治以降に作られたこの華族の頂点を知ることで、現在の皇室、そして政治に出てくる人物との繋がりが、もっと見えてくるのではないか?と思ったからである。

それではリストを公開(^_-)-☆

伊藤博文

生年月日 1841年10月16日
没年月日 1909年10月26日(68歳没)
出生地 日本 周防国周防国熊毛郡束荷村
出身校 松下村塾
称号 従一位、大勲位菊花章頸飾、公爵、名誉博士(イェール大学)

百姓の長男として生まれる。百姓とは、農民であり、いなかの人の蔑称でもある。
また、長州藩士の武士である。

つまり、1000円札の肖像画にもなっていた伊藤博文は、百姓の身分から、ここまでのし上がった男なのである。

ちなみに、出身校は松下村塾であるが、これは(まつした)とは読まず、(しょうかそんじゅく)と読む。歴史をよく知らない人が見ると、松下幸之助が、1979年(昭和54年)に設立した政治塾である松下政経塾と混同する人もいるかもしれない。

ちなみに、伊藤博文といえば、初代内閣総理大臣(1885年12月22日 - 1888年4月30日)である。またその後にも、

・第5代 内閣総理大臣(1892年8月8日 - 1896年8月31日)
・第7代 内閣総理大臣(1898年1月12日 - 1898年6月30日)
・第10代 内閣総理大臣(1900年10月19日 - 1901年5月10日)

合計、4回、内閣総理大臣になっている。

で、もう一つ気になるのは、日本ではなぜか、山口県という人口が、140万人にも満たない県から、なんと歴代の内閣総理大臣が、8人以上も輩出されていることだ。

・山縣有朋(第3代・第9代内閣総理大臣)
・桂太郎(第11代・第13代・第15代内閣総理大臣)
・寺内正毅(第18代内閣総理大臣)
・田中義一(第26代内閣総理大臣)

・岸信介(第56代・第57代内閣総理大臣)→熊毛郡田布施町(出生地は山口市)
・佐藤榮作(第61代・第62代・第63代内閣総理大臣)→熊毛郡田布施町
・菅直人(第94代内閣総理大臣)→宇部市。本籍地は岡山県久米郡福渡町
・安倍晋三(第90代・第96代・第97代内閣総理大臣)→長門市(本籍地)出生は東京都

ちなみに、韓国でも似たような現象が起きている。→慶尚出身から歴代大統領の半分以上

「韓国人同士でも差別はある?全羅道や済州出身だと見下されるワケ」

これは、世界の富の大半をユダヤ教が所有しているとか、ノーベル賞の多くが、人口も少ないユダヤ人の手にあるとか、その辺の原理と似ている気がしてならない。

ちなみに、この山口県に多くの首相が輩出される事柄と関連して、明治天皇(京都→東京に移動した初めての天皇)が、山口県田布施町出身の大室寅之助である。という話しもネット上に結構上がっている。

大室寅之助という人物は個人のブログでは結構でてくるけれども、ウィキペディアには出てこなく、けれども、不思議なことに、

大室寅之助 wiki と検索すると、なぜか明治天皇のページがグーグル検索のTOPに出てくるという謎もある…。ちなみに、もしこれが本当のだとすれば、天皇家はもうとっくに途絶えてしまっているということになる。日本人としては、決して良い話ではない。

また、天皇家は、2000年以上続いていたとする声もある一方、海外では日本人以上に皇室を理解しているものが、そうではない可能性も否定できない。と言っていたりもする。

「日本のエンペラー(天皇)や皇室について、キミたちが知らないコト TOP5【海外の反応】」

岩倉具定

生年月日 1852年1月18日
没年月日 1910年4月1日(満58歳没)
出生地 山城国(現在の京都市)
出身校 ラトガース大学(アメリカ)
称号 勲一等旭日桐花大綬章

岩倉具視(公家)の息子である。岩倉具視といえば、維新の十傑の1人である。

・西郷隆盛(薩摩藩)
・大久保利通(薩摩藩)
・小松帯刀(薩摩藩)
・大村益次郎(長州藩)
・木戸孝允(長州藩)
・前原一誠(長州藩)
・広沢真臣(長州藩)
・江藤新平(肥前藩)
・横井小楠(肥後藩)
・岩倉具視(公家)

 

一条実輝

生年月日 1866年10月2日
没年月日 1924年7月9日
出生地 山城国(現在の京都市)
出身校 フランス(留学)

上にも少し触れたけれども、一条家藤原北家から分岐した五摂家の一つである九条道家の三男実経(一条実経始祖とする。つまり、一条実輝の先祖は、藤原鎌足になる。

けれども、一条実輝の場合は、実父が四条隆謌で、一条忠貞の跡を受け家督を継ぐ形になっているので直接の血の繋がりはない。

また後を受け継ぐ形とはどういうことかというと、一条忠貞は、一条実良一条忠香の子の三女・良子)と結婚し、その婿養子となったが、明治15(1882)年、不品行のため廃嫡・離縁され、実家醍醐家に戻ったからである。

その空きスポットに、一条実輝が入ったという形である。

また昭憲皇太后(明治天皇の妃)が義理の叔母にあたる。→昭憲皇太后の父は、一条忠香である。

「明治維新以降、天皇や日本国民を支え続けている「日本の母、女王」皇后、皇太后 TOP5」

実輝は、フランス留学の後、日清戦争や日論戦争で、海軍軍人を務める。その後、フランス公使館附海軍武官となる。その後、海軍大佐に昇進。→予備役→東宮侍従長(宮内省)→掌典次長、祭官長等→宮中顧問官

というふうにキャリアを積んでいった。ところで、再婚もしている。

当初、上にも書いた通り一条実良の三女で昭憲皇太后の姪の良子と結婚していたが、後に侯爵・細川護久(肥後熊本藩の第12代→最後の藩主)娘の悦子と再婚。

 

大山巌

生年月日 1842年11月12日
没年月日 1916年12月10日(74歳没)
出生地 薩摩国鹿児島城下加治屋町
出身校 ジュネーヴ(留学)
称号 元帥陸軍大将、従一位、大勲位菊花章頸飾、功一級、公爵

桂太郎

生年月日 1848年1月4日
没年月日 1913年10月10日(65歳没)
出生地 長門国阿武郡萩町(現:山口県萩市)
出身校 ドイツ(留学)
称号 陸軍大将、従一位、大勲位菊花章頸飾、功三級金鵄勲章、公爵

日露戦争を勝利に導いた「第二流内閣」である。

九条道孝

生年月日 1839年6月11日
没年月日 1906年1月4日
出生地 山城国(現在の京都市)
称号 従一位、公爵

・最後の藤氏長者(飛鳥時代から続く、藤原鎌足を祖とする神別氏族)

大正天皇の妻、貞明皇后の父が、九条道孝である。

 

近衛篤麿

生年月日 1863年8月10日
没年月日 1904年1月1日(40歳没)
出生地 山城国(現在の京都市)
出身校 ライプツィヒ大学(ドイツ)
称号 従一位勲二等、公爵

近衛家は五摂家筆頭の家柄である。 

西園寺公望

生年月日 1837年3月13日
没年月日 1891年2月18日(53歳没)
出生地 山城国(現在の京都市)
出身校 フランス(留学)
称号 正一位、大勲位、菊花大綬章、公爵

伊藤博文の腹心にったことをきっかけに、伊藤内閣で、文部大臣、外務大臣などを果たしたり、伊藤博文が病気で療養中は、内閣総理大臣臨時代理を務めたりなど、伊藤博文との関係はものすごく近かった人物である。また、それらの功績から、日本の歴史史上最後の元老(天皇へアドバイスできる身分)として知られる。しかも、その元老のほとんどは、長州か薩摩出身であり、西園寺公望のみが唯一の公家出身であった。

公家ということは武家ではなく朝廷側の人間なので、京都出身ということである。

元老は8人いた。

①伊藤博文(長州)
②黒田清隆(薩摩)
③山縣有朋(長州)
④松方正義(薩摩)
⑤井上馨(長州)
⑥西郷従道(薩摩)
⑦大山巌(薩摩)
⑧西園寺公望(公家)

なので、西園寺公望=元老になった人物で唯一の公家というふうに覚えるのもいいかもしれない。

 

三条実美

生年月日 1837年3月13日
没年月日 1891年2月18日(53歳没)
出生地 山城国(現在の京都市)
称号 正一位、大勲位菊花大綬章、公爵

実美(さねとみ)は、インフルエンザ罹患により55歳で死去。父親は、三条実万(さねつむ)で、幕末の公卿(くぎょう)

 

島津忠義

生年月日 1840年5月22日
没年月日 1897年12月26日

・薩摩藩の第12代(最後)の藩主

・島津氏第29代当主

現代に通じるポイントと言えば、島津忠義の娘である、邦彦王妃俔子と、久邇宮邦彦王との間に、香淳皇后(昭和天皇の妃)が生まれる。つまり、第125代天皇・明仁曽祖父にあたる。

つまり、私の大好きな香淳皇后のお爺さんが、島津忠義というわけだ。

 

島津久光

生年月日 1817年12月2日
没年月日 1887年12月6日

薩摩藩における事実上の最高権力者。江戸幕府を倒して、島津幕府を作ろうとも考えた人物。→これは、あまり知られていないかもしれない。第125代天皇・明仁の遠い親戚になる。→上の島津忠義の父が、島津久光なのだから。ちなみに、息子の島津忠義よりも長生きしている。

 

鷹司熙通

生年月日 1855年4月2日
没年月日 1918年5月17日
出身校 ドイツ(留学)
称号 従一位、勲一等、公爵

九条尚忠の子どもではあるが、嗣子のなかった鷹司輔煕(孝明天皇時代の関白)の養嗣子となる。 

徳川家達




生年月日 1863年8月24日
没年月日 1940年6月5日
出身校 イートン・カレッジ(イギリス)

本来、江戸幕府第15代征夷大将軍になる予定だった亀之助(徳川家達)だけれども、14代将軍である徳川家茂が崩御したときに、家達は、まだ4歳の幼児であったため、静寛院宮(和宮)、雄藩大名らが反対した結果、一橋家の徳川慶喜が15代将軍に就任した。

その後、華族の公爵となった徳川家達は、以下のように、かなり高い地位に就いている。


・貴族院議長
・ワシントン軍縮会議全権大使
・1940年東京オリンピックの組織委員会の委員長
・第6代日本赤十字社社長
・華族会館館長
・学習院評議会議長
・日米協会会長

ちなみにウィキペディアの公爵リストでは、徳川篤敬が公爵の扱いになっているが、正しくは侯爵である。つまり、徳川篤敬ば公爵ではない。

日本の華族一覧

公爵、侯爵は読み方が同じなので、紛らわしい。

徳川慶喜




生年月日 1837年10月28日
没年月日 1913年11月22日
出身校 弘道館(江戸時代後期に日本の水戸藩常陸国)に作られた藩校)

征夷大将軍と聞くと、あたかも江戸にいたかのような感じもするが、実は「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」という教育方針に則り、生後7ヶ月に江戸から水戸に移っている。

弘道館で勉強していたことからも分かるように、現在の茨城県の水戸にいたということだ。在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍として有名。

江戸幕府第15代征夷大将軍(日本史上最後の将軍)である。

 

徳大寺実則

生年月日 1840年1月10日
没年月日 1919年6月4日
称号 従一位、大勲位菊花章頸飾、公爵

1919年、流行性感冒(スペインかぜ)のため死去。徳大寺実則のもとをたどると、こんな感じになる。

徳大寺実則

徳大寺公純(1821年12月22日~1883年11月5日)

鷹司政通(1789年8月22日~1868年11月29日)

鷹司政煕(1761年5月14日~1841年3月29日)

鷹司輔平(1739年3月17日~1813年2月8日)

閑院宮直仁親王(1704年10月7日~1753年7月3日)

東山天皇(1675年10月21日~1710年1月16日)

つまり、東山天皇の血が入っているというわけだ。

二条基弘

生年月日 1859年11月19日
没年月日 1928年4月2日

九条道孝と同じように、父親が、九条尚忠(関白)である。けれども、二条斉敬の養子となったので、名字は二条になっている。

松方正義

生年月日 1835年3月23日
没年月日 1924年7月2日(89歳没)
出生地 日本 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村
出身校 造士館(鹿児島藩→薩摩藩が江戸時代後期に設立した藩校)
称号  従一位、大勲位菊花章頸飾、公爵、名誉博士(オックスフォード大学)

明治時代、2度も内閣総理大臣を務めている。また、日本銀行の創立者。(金本位制を確立する)

また、別府温泉の発展の礎を築いた。

 

毛利元徳

生年月日 1839年10月28日
没年月日 1896年12月23日
出生地 長州藩
称号 従一位、勲一等旭日桐花大綬章、公爵


長州藩の第14代(最後の)藩主。父は、毛利広鎮(周防徳山藩の第8代藩主)毛利元徳(もとのり)の元祖は、毛利元就(もとなり)である。 毛利元就とは、現在の中国地方のほぼ全域を収める戦国大名であった。

山県有朋



生年月日 1838年6月14日
没年月日 1922年2月1日(83歳没)
出生地 長州藩
出身校 松下村塾
称号 元帥陸軍大将、従一位、大勲位菊花章頸飾、功一級金鵄勲章、公爵

日本の武士(長州藩士)→陸軍軍人→内閣総理大臣(第3・9代)→二回経験。と、もともとは長州の武士であった。山県有朋は、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した6人のうちの1人だった。(杉山松助や、伊藤俊輔→伊藤博文らも)

その後、長州藩における尊王攘夷派の中心人物である久坂玄瑞の紹介で、松下村塾に入った。この塾に入るということが、出自の低い山県有朋にとっては、出世するきっかけになったと考えられている。

Reference Site
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の華族一覧

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