この記事では、近代朝鮮・韓国史で歴史を動かした、または変えるきっかけになった、今もなお英雄・リーダー扱いにされている人物をピックアップしていこうと思う。
ネット上にはあまりにも、以下のような、歴史的に虐げられてきた人たちの話題も多いので…
「李氏朝鮮時代まで存在した韓国の高級娼婦、妓生 (きしょう)の写真が物語るその実態とは」
「李氏朝鮮時代の身分制度。両班、中人、常人、賤民と、人間扱いされなかった「白丁」(ペッチョン)との格差」
この記事では、いわゆる韓国における英雄的なものを書いていきたい。
日本史からみると、少し文句を言いたいこともあるような記事になってしまっているが、あくまでも韓国側からみた内容として書くことに努めた。
相手がどのような認識で歴史を学んでいるかを知りこちら側が賢くなることができれば、あらゆる場面で韓国人と歴史について問題なく話せることになる。
また、かわすところはうまくかわし、その場の空気で謝らなければならないと思ったところは、空気を読み取るなど、だいたいのことは日本人側が理解していれば、うまくいくと私は考える。
けれども日本人が韓国人などと歴史の話になると、日本人側のほうが朝鮮が日本に統治されていた時代のことについて、あまり詳しく知らない傾向があると思う。
私もインターネットでユーチューブなどをみて、日韓の歴史を知った気になっていたものの、実際にこのように人物を掘り下げて、日本統治前に、どんな出来事があったのか?というのは、最近知ったことのほうが多い。
今までは薄っすら、ぼんやりと知っていた。と言ったほうがいいだろうか。以前、韓国にキリスト教が根付いた理由についての記事を書いたこともあったけれども、そういう部分も含め、日本人は朝鮮のことを全く理解していないと言ってもいいかもしれない。
また同様に、韓国人も日本史について理解していない部分が多い。日本人の場合、朝鮮の歴史に全く興味がない人が多いのに対して、韓国には日本の明治維新以降の歴史に興味を持つものが結構多いという点から考えると、やはり日本人ももっと、朝鮮の近代史について学ぶことが重要であり、それが相互理解につながるのかもしれない。とこれを書きながら思った。(もちろん、韓国に興味ある人限定ですが…)
それでは、ランダムに韓国の歴史的人物を掘り下げていこう。
14位 閔妃
生年月日 1851年10月19日
没年月日 1895年10月8日
出生地 京畿道驪州郡近東面蟾楽里
彼女はどんな状況に置かれていた人物だったのか?ということを書くと、まず、高宗(こうそう)の配偶者である。高宗とは、李氏朝鮮第26代国王であり、李氏朝鮮最後の国王である。
つまり、これを江戸時代に当てはめて考えれば、15代将軍、徳川慶喜の妻にあたるのが、閔妃とも言える。(もちろん、朝鮮の場合は国王で、喩えにした江戸時代の場合は将軍なので、地位的には比べられないが…)でも、分かりやすく言うとこんな感じなのである。実際に、明治維新になるのと同時に、徳川家も滅びたのだから…。
で、ポイントとしては、閔妃は、興宣大院君(こうせんだいいんくん→高宗の実父)と対立していた人物としても知られる。
閔妃の経歴をザックリ見ていこう。
1866年(満15歳)=に王妃になる。
1871年(満19歳)=男子を出産したが、数日後死亡。
1873年(満21歳)=閔氏が政権を取る。→大院君を含め、大院君系列の人々が追放、流刑、処刑などで追放されたため
1884年(満32歳)→甲申政変により、日本軍が閔妃のいる王宮を占領する。これにより閔妃は失脚。
1895年→明成皇后弑害事件により薨去(こうきょ)→皇族・三位(さんみ)以上の人が死亡すること。
1919年→死体が火葬される
日本人に殺害された、しかも女性で地位の高い人物であるという点から、韓国では英雄扱いになることもある。それは映画になったり本になったり、知らない人はいないくらいの有名。
13位 洪鐘宇
生年月日 1850年
没年月日 1913年
当時、福沢諭吉などとも近い関係にあった、この記事のリストにも名前が出ている、金玉均 (岩田秋作)を暗殺したとして有名。李氏朝鮮時代末期の1886年に日本に渡り、朝日新聞社で植字工として働きながらフランス語を勉強していたと言われている。
閔妃の目に留まった洪鐘宇はその後、金玉均を暗殺する刺客に抜擢される。1885年に亡命していた金玉均に近づき、それから数年後の1894年3月28日、上海に金玉均をおびき寄せ暗殺した。
李氏朝鮮の末期に、多くの朝鮮人が日本に来ていたことを示すストーリーでもある。
12位 李承晩
生年月日 1875年3月26日
没年月日 1965年7月19日(90歳没)
出生地 黄海道平山郡馬山面大慶里
勝手に李承晩ラインを引いて日本の竹島を実効支配した人物として日本では知られている。そんな李承晩は、朝鮮の独立運動家の一人で、大韓民国の初代大統領でもある。
大韓民国が成立したのが、1948年8月15日だと言われているので、日本人からすると、現在の韓国という国は、歴史が浅い新しい国家にも映ると思うのだけれども、その初代大統領が李承晩だったというわけだ。
また、1960年には、李承晩大統領の独裁政治に反対する四月革命によって、李政権は打倒されることになる。最終的には、ハワイへ亡命。
11位 柳寛順
生年月日 1902年11月17日
没年月日 1920年10月12日
出生地 、忠清南道天安郡龍頭里(現・天安市)
独立運動家。韓国では英雄的な扱いであることがある。特に印象深いエピソードとして、
裁判所の椅子を裁判長に投げつけた。というものがある。
そんな柳寛順は、米国人女性宣教師アリス・シャープ(キリスト教メソジスト)の援助によって、京城(現ソウル)の梨花学堂に給費生として入学している。
そう。彼女もクリスチャンである。韓国で女性は英雄になることは少ないということもあり、このランキングの中でもひときわ目立つ存在である。
また日本の統治に反対した多くの人たちが、西洋からやってきた宣教師によって、クリスチャンになった韓国人だということがわかりやすい典型かもしれない。
「韓国を知る上で重要な、朝鮮にキリスト教が根付いた理由と、その歴史」
また、彼女の生まれた天安というのは、歴史的にも両班(ヤンバン)→李氏朝鮮時代、特権的な暮らしをしていた人たちが、他の道(韓国の行政区)に比べても多かったということから、日本の統治に反対した人も多かったため、さまざまな運動が起きていたともいわれている。
逆に両班の少なかった地域は、現在でも差別の対象となることが多いと、個人的には感じている。
「韓国人同士でも差別はある?全羅道や済州出身だと見下されるワケ」
また、この両班の少なかった地域、特に今でも差別の対象になっているとされる済州島や、韓国南部の人たちは、長い間、両班に虐げられてきた歴史があるので、日本の統治に賛成した人も多かったということを聞いたことがある。
これは日本でも、朝廷(京都)ではなく、薩摩(鹿児島県)や、長州(山口県)などの藩が、外国の勢力をバックにつけて明治維新の時に活躍した構図と少し似ているのではないか?とも思ったりした。
実際に日本ではそのような、朝廷側ではなかった薩摩や長州の人たちが、明治維新以降の華族(日本版の貴族)に多くいたり、今も経済界のTOPにもこの辺の出身者が多い気がする。
つまり、どこの国にも虐げられた側の人たちは必ずいて、そういう人たちが外国の勢力をバックにつけるケースが多いのではないか。と思ったりする。
これは現在のインドでも進行中…。
「当然の知識(教養)として知っておきたい、インドのカースト制度【ヴァルナ】の序列 TOP5(不可触民、シュードラ、ヴァイシャ、クシャトリヤ、バラモン)と【ジャーディ】」
10位 孫秉煕
生年月日 1861年4月8日
没年月日 1922年5月19日
出生地 忠清北道清原郡
9位 李完用
生年月日 1856年7月17日
没年月日 1926年2月12日
出生地 京畿道京城府
韓国政府によって公式にも親日反民族行為者に認定されている人物。つまり、親日派(チニルパ/チンイルパ)、売国奴の代名詞とさえなっていて、乙巳五賊、丁未七賊、庚戌国賊の全てのリストに入っている唯一の人物である。
朝鮮貴族の「侯爵、伯爵」リスト TOP21 と、韓国を裏切った親日派(チニルパ)→「乙巳五賊」「丁未七賊」「庚戌国賊」リストに載った人物たち
親日派(韓国ではネガティブな意味)の代名詞と言ってもいいかもしれない。日本の華族のように、侯爵の称号すら得ている。
もともとは、親米派の立場をとっていて、親日勢力を圧迫していた李完用は、日露戦争で日本が勝った後、日本寄りの態度をとるように変わる。1907年、当時韓国統監だった伊藤博文の推薦により内閣総理大臣に就任。
刺客の李在明(クリスチャン)に襲われたり、大変な思いもかなりしている。この当時、日本が韓国をロシアの防衛線と考え近代化させていきながらも、自国に併合しようとしていた一方、韓国には多くの宣教師(西洋諸国から)がやってきて、多くの韓国人をクリスチャンにし、日本の植民地化を止めるという名目で、動いていたことが分かる。
8位 尹東柱
生年月日 1917年12月30日
没年月日 1945年2月16日
出生地 間島(現・中国吉林省延辺朝鮮族自治州)
詩人である彼がなぜ韓国で英雄扱いされるかというと、尹東柱が、東京に留学していた1941年、専門学校時代の友人と独立運動に参加し、それが日本の治安維持法の違反で逮捕されることになるからである。
しかし、懲役2年(福岡刑務所)の判決を受け、服役中に死亡。その死亡原因が不明であることもあり、韓国では日本の生体実験で殺されたと信じられていて、殉教者として映画化もされている。韓国人側の主張は以下の記事で十分わかるかもしれない。
7位 安昌浩
生年月日 1878年11月9日
没年月日 1938年3月10日
出生地 平安南道
6位 金斗漢
生年月日 1918年5月15日
没年月日 1972年11月21日
出生地 ソウル鐘路(チョンノ)
5位 方定煥
生年月日 1899年11月9日
没年月日 1931年7月23日(31歳没)
出生地 ソウル
東京の東洋大学の哲学科で児童文学と児童心理学を学んだ。という学歴を持つ人物。この児童文学を学んだ経験が、1923年に、朝鮮では初めての純粋児童雑誌『オリニ(子供)』を創刊することにつながる。
そのほかにも、児童のための社会活動、民族啓蒙などもしており、先駆的な業績を残したことが評価されている。
特に、朝鮮の伝統的な儒教思想の中で、人権が保障されていない子ども達に対する愛情の表現的な部分が評価されている。
4位 李箱
生年月日 1910年9月14日
没年月日 1937年4月17日(没27歳)
出生地 ソウル鍾路区社稷洞
出身校 新明学校(桜上洞)
1933年、喀血し、仕事をやめ、現在の北朝鮮にある黄海道の白川温泉に行き養生する。ここで、妓生の錦紅(クモン)と知り合う。
その後、1934年に、「烏瞰図(オガムド)」という難解な詩を朝鮮中央日報に連載して批判される。
また、茶房の経営で失敗し、精神的にも衰弱し、次第に落ちぶれていくようになる。その後、卞東琳と結婚するが、それもうまくいかず、1936年に東京へ忽然と赴くことになる。
そんな東京(当時大日本帝国最大の都市)を彷徨いながら暮らしていると、思想不穏の嫌疑で西神田警察署に拘禁され、1ヶ月後、健康悪化のため釈放。
しかし、自己の死を悟ったかのように『終生記』を残して1937年東京帝国大学附属病院の一室でレモンの匂いを嗅ぎながら27歳の生涯を閉じた。
というふうに言われている。
この時代、多くの朝鮮人が日本と朝鮮を普通に行き来していたことがわかるストーリーだ。
3位 金玉均 (岩田秋作)
生年月日 1851年2月23日
没年月日 1894年3月28日(43歳没)
出生地 忠清南道公州
朝鮮独立党の指導者(李氏朝鮮後期)
「三和主義」を唱えていたことで知られる人物。また、ポイントとしては福沢諭吉(1835年1月10日~1901年2月3日)とも近かった人物である。
三和主義とは、朝鮮の近代化を目指すために、日本や中国と同盟し、3国でアジアを盛り上げていくというようなものだ。
この時代からも、鳩山由紀夫前首相が、国家目標の柱の一つとして「東アジア共同体」を創造しようとしていたようなことと同じことが行われていたということだ。
李氏朝鮮末期には、開化派(かいかは)という政治グループがあり、別称、独立党ともいわれる。そのグループのリーダー的な存在が、金玉均と朴泳孝であり、福沢諭吉邸を拠点に現在でいう慶應義塾大学の関係者が全面協力(武器などの面で)していたと言われている。(1882年2月から7月まで金玉均が日本に遊学していた時期)
つまり日本に亡命していた時期があった。その後、朝鮮と日本を何度か行き来するようになる。また日本の明治維新のように、朝鮮自体が近代化し、清の属国から抜け出そうと考えた人物であると考えられる。
其の後、朝鮮で甲申政変(こうしんせいへん→1884年に閔妃を失脚させようとした政変)を起こす。この失敗により、日本に亡命することにより、金玉均は残りの人生を日本で過ごすことになる。
その後、金玉均は上海(1894年)におびき寄せられて、暗殺される。清の時代まで中国で処された処刑の方法のひとつで、かなり残酷な凌遅刑(りょうちけい)後、朝鮮にその遺体は運ばれたという。また、その残忍な処刑方法が日本にも伝わった。
これは、閲覧注意度がかなり高い写真(ウィキペディアのURL)なので、閲覧は自己責任でお願いします。けれどもこの写真をみることで、この当時の歴史がより理解できるようになると思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Beheaded_Kim_Okgyun.png
写真をみると、大逆不道玉均と書かれていることが分かる。あくまでも写真なので本物かどうかはわからないが、本人のものと考えられているようだ。
つまり裏切り者はこのようになるのが当然であるという考えが、閔妃側にはあったのかもしれない。(閔妃はもっとも残酷な指導者ともいわれているので…)
ちなみに、福沢諭吉の脱亜論(1885年)は、この出来事の後に書かれたという風にも言われている。それほど、福沢諭吉と金玉均 (日本名→岩田秋作)の関係は深かったということがわかる。また、金玉均の墓は、青山霊園にある。
実際に、金玉均の暗殺の1年後に、閔妃は、日本軍などに殺害されている。
2位 全ボン準
生年月日 1854年
没年月日 1895年4月24日
出生地 全羅北道 泰仁
この写真は逮捕されてソウルに連れていかれている途中のもの。写真の右から三番目のこちらを座りながら向いている髪の毛をオールバックにしている男性。
漢城(ソウル)で、日本軍によって捕らえられ、1895年に処刑されたとされる。しかし、井上薫(日本公使)は、彼の人格に共感し、朝鮮政府に処刑しないように要請したという話もある。ちなみに、全ボン準は、甲午農民戦争の契機をつくった人物とされている。
ちなみにこのように、二人が座わりながら運ばれているわけだけど、この当時、こういう運び屋?みたいな階級の人たちがいたということがわかる写真となっている。
こういうのを奴婢(ぬひ)という。以下、詳しく書いたことがある。
「李氏朝鮮時代の「奴婢」の写真が衝撃的だった件と、日本や欧米もなんら変わらないと思った理由」
この時代の階級を知ることで、韓国人よりももっと朝鮮のことを理解できるようになるかもしれない。日本人でも江戸時代の階級について知らない人が多いのと同じように、韓国にも、自国の歴史をきちんと理解していない人は多いので(;^_^A
1位 安重根
生年月日 1879年9月2日
没年月日 1910年3月26日(30歳没)
出生地 大朝鮮国 黄海道 海州
もともと安重根の家は資産家で、地方両班だったと言われている。この時代、甲午農民戦争があったことや、さまざまな影響からクリスチャンになった安重根は、フランス語を習得。
けれども、フランス語をこれ以上勉強すればフランスの奴隷になる、英語を勉強すればイギリスの奴隷になる、日本語を勉強すれば日本の奴隷になると考えたそうで、熱心に外国語学習をするのはやめてしまったようだ。
また伊藤博文を暗殺することになるが、それが結果的に、韓国併合を早める結果につながったとも言われていたりする。
いずれにしても、日本の華族の中でも、一般人から公爵にまで上り詰めたあの伊藤博文を暗殺した人物として、英雄扱いされている。
ちなみに、当時、日本の華族(明治維新から終戦までに存在していた日本版の貴族)の中でも、TOPの称号である公爵を持っていた人は、19人程度だったとされている。
「日本の旧華族(貴族)階級の頂点「公爵」リスト TOP19」
マルチンのコメント
さまざまな人物について自分自身調べてみるのと同時に、この時代にどんな出来事があったのか。ということがだんだん見えてきたような気がする。またその背景には、西洋列強のクリスチャン(宣教師)などの影響があったり、背後に清(現在の中国)の影響があったり、朝鮮自体も、国が清に傾いたり、ロシアに傾いたり、日本に傾いたりで揺れていた時期だったことが分かる。
もともと数百年以上もずっと中国の属国であったがゆえに、目まぐるしく変わる朝鮮情勢の中で、誰もがどこに向かっていいのかわからなかった時代のように私は思った。
いずれにしても、この記事を書き終えて思ったのは、私は韓国に数年いたのにもかかわらず、当時の朝鮮のことをそれほど理解していたとは言えないことだったというところかも知れない…。
今後も、このネタは書き続けますね(^_-)-☆
Reference Site
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