華族は東京に住まなければならなかったのに対して、朝鮮貴族はそういう決まりはなかった。また、貴族階級でTOPクラスである公爵は、日本人から19人が選ばれたけれども、
「日本の旧華族(貴族)階級の頂点「公爵」リスト TOP19」
朝鮮貴族から公爵が出ることはなかった。これは、一等国民(日本)、二等国民(朝鮮)、三等国民(台湾)という部分に関係しているのかもしれないと個人的に思ったりもした。
なので、朝鮮貴族の場合は爵位のナンバー2である侯爵からはじまる。
そしてここに出てくる多くの人物は、李氏朝鮮時代の王朝の子孫などが多いことが挙げられる。つまり、伊藤博文が安重根に暗殺され、1910年に日韓併合(大韓帝国が日本の一部になること)以降、この朝鮮貴族が設けられたわけだけれども、今まで続いてきた李氏朝鮮王朝の関係者は、引き続き大日本帝国の下でも特別に扱いますよ。ということなのだろう。
写真が残っていないものもあるので、より多くの朝鮮貴族を知ってもらうため、侯爵と伯爵のリストを一緒にして楽しめるようにした。
また、記事を書いていて気付いたのは、多くの人たちがその親から襲爵(しゅうしゃく)しているケースが非常に多いことかもしれない。
そして、ここに並ぶ名前のほとんどは、「親日派708人」や、「親日反民族行為195人名簿」に載っているので、親日派(裏切り者)のレッテルを張られている人がほとのどである。
①李載完
生年月日 1856年1月22日
没年月日 1922年8月11日
出生地 京畿道楊州郡
称号 政治家、陸軍軍人
興宣大院君の甥(養子として)。「親日反民族行為195人名簿」にも選定されている。この人物が、新韓銀行の全身となる漢城銀行を設立している。
ちなみに私は韓国に行くときは、よく新韓銀行で両替をするので、この記事を書いていて、こういうところに繋がってくるのか…。と感心…。
②李達鎔
生年月日 1883年9月11日
没年月日 1948年1月27日
称号 侯爵
李載完の息子なので、李氏朝鮮の王族であり、大韓帝国の皇族。①李載完の相続人であり、1922年襲爵。また、大韓帝国第2代皇帝である純宗 (朝鮮王)の最初の妻である純明孝皇后と兄妹の関係にあたる。
③李載覚
生年月日 1874年2月18日
没年月日 1935年5月11日
出生地 漢城府
称号 侯爵、勲一等旭日桐花大綬章
李載覚(り さいかく)とは、1902年、イギリス特命全権大使に任命され、エドワード7世の戴冠式にも参席した人物。なぜ、こんな王室の戴冠式にも参席できたのか?というのは、李載覚が、荘献世子(そうけんせいし→1735年~1762年)の曽孫(そうそん→孫の子ども)で、王族だからであろう。
韓国赤十字社の初代総裁にも就任。親日派708人や、「親日反民族行為195人名簿」にも選定されている人物。
④李徳鎔
生年月日 1923年4月4日
没年月日 1952年9月16日
出生地 漢城府
称号 侯爵、従五位
李載覚の息子であり相続人である。つまり、李載覚の侯爵がそのまま息子である李徳鎔に襲爵された。
⑤李海昌
encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0046451
生年月日 1865年10月15日
没年月日 1945年3月2日
出生地 京畿道抱川郡
称号 侯爵
徳興大院君李岹の13世の子孫として京畿道抱川郡に生まれる。
⑥李徳柱
生年月日 1887年6月28日
没年月日 1962年11月7日
⑤李海昌の相続人。1945年襲爵。
⑦李海昇
生年月日 1890年6月22日
没年月日 1958年
称号 侯爵
全渓大院君の玄孫(げんそん)で、大韓帝国の皇族である。日韓併合後、日本の華族と同じように、朝鮮貴族の一員に。
⑧尹沢栄
生年月日 1876年1月28日
没年月日 1935年10月24日
称号 侯爵
純宗 (朝鮮王→1874年~1926年)の舅が尹沢栄である。ちなみに、尹沢栄の兄である尹徳栄は、子爵を授かっている。
尹徳栄は、鮮明な写真が残っている。→記事の下のほうに出てくる、庚戌国賊(こうじゅつこくぞく)の②にいる。
⑨尹毅燮
生年月日 1912年3月8日
没年月日 1966年 2月25日
称号 侯爵
尹沢栄の相続人。1935年襲爵。
⑩朴泳孝
生年月日 1861年7月19日
没年月日 1939年9月20日
称号 侯爵
日本名は山崎 永春。哲宗 (朝鮮王)の壻。1907年に、宮内府大臣になる。韓国併合後、1926年(大正15年)に中枢院議長、1932年(昭和7年)に貴族院議員となる。
⑪朴賛汎
生年月日 1917年 8月17日
没年月日 1986年 11月23日
出生地 ソウル特別市東大門区崇仁洞
称号 侯爵
朴泳孝の相続人であり、1939年に襲爵。
⑫李完用
1907年、内閣総理大臣に就任。1909年12月に李在明のテロに遭うが、命拾いする。→この時代、親日の朝鮮人は独立派からかなり狙われていたことが分かる。
また、1910年8月13日、寺内正毅から韓国併合決定を伝えられた場で、韓国の名称を残すように要望するが拒否された。と言われている。
1920年に伯爵から侯爵となった。韓国では、親日派の代表格みたいな存在になっている。
⑬李丙吉
生年月日 1905年1月12日
没年月日 1950年 12月28日
称号 侯爵
李完用の相続人。1926年(大正15年)3月15日襲爵している。
以下、から伯爵(爵位では第3位)
⑭李址鎔
生年月日 1870年12月15日
没年月日 1928年6月28日
称号 伯爵
興寅君李最応の孫、純宗のはとこにあたる。日本留学から帰国後、農商工部大臣・内部大臣などを務めた。激昂した反日団体によって自宅を焼き討ちされたこともあるそうだ。
⑮李永柱
生年月日 1918年2月6日
没年月日 1955年 4月19日
称号 伯爵
⑭の李址鎔の相続人。1928年に襲爵している。
⑯閔泳璘
pub.chosun.com/client/news/print.asp?cate=C01&mcate=&nNewsNumb=20151018483
生年月日 1873年11月15日
没年月日 1932年6月1日
称号 伯爵
1919年に阿片煙吸食罪で爵位を褫奪される。写真の中の一番左側の男性が、閔泳璘と韓国語のサイトでは紹介されていた。
⑰宋秉畯
生年月日 1873年 7月22日
没年月日 1934年 2月27日
称号 伯爵
日本名は、野田秉畯であり、日韓の融和に努めた功績により、没後に正三位勲一等が追贈されたとされている。
1920年に伯爵となった。襲爵した子(⑱)の宋鍾憲(野田鍾憲)伯爵は、後に貴族院議員となっている。
⑱宋鍾憲
blog.daum.net/notable/15818747
生年月日 1876年 10月19日
没年月日 1949年 5月21日)
称号 伯爵
宋秉畯の相続人。1925年襲爵。貴族院朝鮮勅選議員。また日本名は、野田鍾憲である。写真を見ると、髭の形が印象的で、覚えやすいかもしれない。また日本人っぽい顔をしているのも特徴的。
⑲高羲敬
生年月日 1873年 7月22日
没年月日 1934年 2月27日
称号 伯爵
⑳高興謙
生年月日 1893年9月11日
没年月日 1939年8月14日
称号 伯爵
高羲敬の相続人で、1934年に襲爵。
㉑高重徳
生年月日 1923年2月18日
没年月日 不明
称号 伯爵
⑳の高興謙の相続人で、1939年に襲爵。
Reference Site
조선귀족
日本版の侯爵は以下。
「日本の旧華族(貴族)階級の「公爵」の次に地位が高い「侯爵」リスト TOP40」
また、
①公爵
②侯爵
③伯爵
④子爵
⑤男爵
の違いをきちんと知りたければ、以下も参考になると思う。(こんなこと書こうとする人がまずあまりいないのでね…)
「世界の王室(皇室)と、貴族における階級(爵位)と、天皇、国王(女王)、王子(皇太子)、大公、公爵、侯爵、 伯爵、子爵、男爵の違い」
単に伯爵だからすごい!!って思っていた人は、伯爵って3位なんだぁ…。と聞いてそのイメージが崩れるかもしれないよ(笑)
それでは次に、「乙巳五賊」、「丁未七賊」、「庚戌国賊」リストについて語っていきたいと思う。
それぞれを解説しながら、そのリストも公開していこう。
①乙巳五賊(いっしごぞく)
乙巳五賊(いっしごぞく)とは、日本による韓国支配を確立させる保護国化を定めた第二次日韓協約(1905年)に賛同した韓国(大韓帝国)の五名の閣僚を批判して言った言葉であり、わかりやすく言うと、日清戦争で清(現在の中国)に勝利した日本は、当時の李氏朝鮮(1392年~1897年)を大韓帝国(1897年から1910年)に改めさせた。
なぜかというと、当時の李氏朝鮮は清の属国だったからである。
当時、ロシアがシベリア鉄道を完成させる中で、ウラジオストクに拠点を持ち、朝鮮半島を南下しそうになっていた時代である。つまりロシアが朝鮮半島を狙っていた時代であった。
その中で、日本側からすると李氏朝鮮が清の属国であり続けることは、日本列島を守るという観点からも、不利であったからだ。
で李氏朝鮮が大韓帝国という国に改めることで、大韓帝国では李氏朝鮮時代から続いた王を皇帝にして、完全な独立国家にすることによって、日本は大韓帝国のバックについたということだ。
けれども、1905年に日本は、大韓帝国という独立国にした国の外国権をすべて日本のものにしてしまった。つまり、形上は皇帝がいる大韓帝国だけれども、実質上、日本が支配してしまったという意味になる。
これに協力した人物が、乙巳五賊(いっしごぞく)と呼ばれているのだ。
①李完用
この人物はこの記事の一番上に出てくる。また、「乙巳五賊」、「丁未七賊」、「庚戌国賊」全てのリストに入ってるので、親日派の代表的な存在としても知られている。
②李根沢
生年月日 1865年8月11日
没年月日 1919年12月16日
出生地 忠清道忠州
称号 子爵
③権重顕
生年月日 1854年 11月27日
没年月日 1934年 3月19日
出生地 忠清北道泳動
称号 子爵
④朴斉純
生年月日 1858年12月7日
没年月日 1916年6月20日
出生地 京畿道龍仁
⑤李址鎔
この記事の侯爵リストの⑭に出てくる人物である。
丁未七賊(ていびしちぞく)
乙巳五賊は、第二次日韓協約(1905年)に賛同した人物であったのに対して、丁未七賊(ていびしちぞく)は、ハーグ密使事件(1907年)の後に、高宗の退位に関与した韓国(大韓帝国)の七人の閣僚のことである。
第2回万国平和会議(ハーグで開かれていた)の際に、当時大韓帝国の皇帝高宗がハーグに密使を送り、大韓帝国の外交権がすべて日本にはく奪されてしまったことを世界中に訴えたことにより、日本側から、高宗の地位から外されたことを手伝ったと言われている人物たちのことを指す。
①李完用
乙巳五賊でもでてきた。
②宋秉畯
侯爵リストの⑰にいる人物。
③李秉武
生年月日 1864年2月8日
没年月日 1926年12月6日
称号 子爵、軍人
④高永喜
生年月日 1849年12月16日
没年月日 1916年1月25日
出生地 京城北部
称号 子爵
⑤趙重応
生年月日 1860年11月4日
没年月日 1919年8月25日
出生地 漢城
称号 子爵
漢城(現在のソウル)の両班の家に生まれる。乙未事変の際に、法部刑事局長として閔妃を廃妃とするなどの事後処理にあたった人物とされている。
⑥李載崑
生年月日 1859年4月8日
没年月日 1943年7月11日
出生地 京城府鍾路
称号 子爵
この記事の一番上にいる侯爵リストの①李載完の実の弟である。李載完は、上にも書いてある通り、現在の新韓銀行の設立者である。
⑦任善準
生年月日 1860年12月17日
没年月日 1919年 2月21日
出生地 鍾路区通義洞
称号 子爵
庚戌国賊(こうじゅつこくぞく)
庚戌国賊(こうじゅつこくぞく)とは、日韓併合条約締結(1910年)に賛成、協調した8人の官僚のことを言う。
①李完用
この記事のリスト全てに載っている。朝鮮貴族(侯爵)であり、「乙巳五賊」、「丁未七賊」、「庚戌国賊」すべてのリストに載っている人物である。
②尹徳栄
生年月日 1873年12月27日
没年月日 1940年10月18日
称号 子爵
この記事の一番上にある侯爵リストの⑧にいる尹沢栄の兄である。上にも書いてあるが、尹沢栄は、純宗 (朝鮮王→1874年~1926年)の舅がである。
③閔丙ソク
生年月日 1858年
没年月日 1940年8月
出生地 忠清南道懐徳郡
称号 子爵
1882年の壬午軍乱では閔妃擁護に回り、以降彼女から寵愛を受けるようになったとされている人物。当時、閔妃は日本側についていたが、その後、鞍替えして清側についてしまったことで有名。
甲申政変の際に、大日本帝国へ亡命した金玉均の暗殺計画を立てている。金玉均(日本名は、岩田秋作)といえば、この記事ではでてこないけれども、親日派としてもものすごく有名なイケメンであるので、一度写真をみてみるのもいいかもしれない。
「歴史を動かした朝鮮(韓国)の偉人・英雄・リーダー(近代版) TOP13」
ちなみに、閔丙ソクは、1912年に、明治天皇大喪の礼に参列したそうだ。
④高永喜
丁未七賊(ていびしちぞく)の④にいる人物。
⑤朴斉純
乙巳五賊(いっしごぞく)の④にいる人物。
⑥趙重応
丁未七賊(ていびしちぞく)の⑤にいる人物。
⑦李秉武
丁未七賊(ていびしちぞく)の③にいる人物。
⑧趙民煕
生年月日 1859年10月14日
没年月日 1931年1月2日(71歳)
出生地 ソウル
称号 子爵
李完用の義理の兄弟にあたる。爵位については、第4位の子爵
最後に。
つまり、韓国で悪とされている親日家の代表的なものが、大韓帝国の外交権のはく奪→日韓併合にサインをした韓国人たちのことだといえばわかりやすいだろうか?
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