ユダヤ人と、聞いて一体どんな人たちを思い浮かべるだろうか。鉤鼻で、アラブ人と白人の間のような、そんなイメージを持つ人もいれば、ホロコースト、世界の産業を牛耳っている、ノーベル賞受賞者が異常に多い。などと、人それぞれユダヤ人に対するイメージは違うだろう。「ノーベル賞の20%、世界の富の分配、産業の独占。日本人はユダヤ人(失われた10支族)説まで、ユダヤに関する知識」
陰謀論も含め、ユダヤ人のことを勉強していると世の中の仕組みが分かってくるとよく言われているが、私もその通りだと思う。
さて、世界では嫌われ者でもある一方で、富の大部分を占有しているユダヤ人の間では、かつて日本人がユダヤ人を助けた。というストーリーが語り継がれている。
日本でも話題になることの多いこのストーリーだけれども、私自身も以下、簡単に書いていきたいと思う('ω')ノ
①世界ユダヤ人会議でも語り継がれている
世界ユダヤ人会議にはユーチューブチャンネルがあり、そこに杉原千畝(1900年-1986年)の功績が語りぐ垂れていた。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害によりドイツから逃れてきた多くのユダヤ人難民がいた。杉原氏は、外務省からの訓令に反して、それらの難民に大量のビザ(通過査証)を発給し、約6000人に上る避難民を救ったことで知られている。このことから、東洋のシンドラーなどと呼ばれていたりするそう。
※シンドラー(ドイツ人)は、自身の工場で働いていた1200人のユダヤ人を救った人物
ちなみに、「外務省からの訓令に反して」の部分は最近異論もでてきている。この辺は、「杉原千畝の話で日本人はダマされています。」という検索でいくつかのブログが出てきた。
②ユダヤ人の間で語り継がれている内容
Saving a life: Japanese diplomat Chiune Sugihara
さて、これがニューヨークに本部を置く、世界ユダヤ人会議の動画で語り継がれている動画である。
以下、内容。
第二次世界大戦中、ユダヤ人はヨーロッパから出ることができなかった。つまり、扉にはすべてカギがかけられていた状態であった。けれども、ある一人の男が、その訓令に反して行動した。
その男は、自分のオフィスの目の前にやってくるユダヤ人のために、ビザを発給し始めた。それがリトアニアのカウナスに領事館に赴任していた杉原千畝だ。すべてのビザは、彼の筆によってひとつひとつ書かれたものだ。杉原氏は、来る夜も来る夜も自らの手で筆を執った。
以下、ユダヤ人の証言
カウナスで、ユダヤ人を救った領事館関係者は日本人だけだった。それを知ったドイツの同盟国である日本政府が、彼を外務省の地位から除外した。けれども、杉原氏こう言って、6000人以上のユダヤ人を救った。もし杉山が、通過査証を許可してくれなかったら、私たちはおそらく殺されていただろう。
自分に助けを求めてくる彼らを死なすわけにはいかない。どんな罰が自分に課せられることになっても、自分の良心に従うべきだ。
今日、約4万人の子孫が、良心的な行動に従った勇敢な杉原氏のおかげで、生きていると推定されている。
③この説に対する、反対意見
2016年には映画(SUGIHARA CHIUNE - Official Trailer (28 April 2016))も公開され、英語のコメントもたくさん書かれてあった。どれも、ポジティブなものばかりだ。
そんなユダヤ人にとって英雄扱いになっている杉原氏は現在、鎌倉霊園に眠っていると言われているが、この功績に対する反対意見もかなり出ていた。
そのポイントは、杉原氏は「そもそも外務省からの訓令に反していない」というもので、日本が通過ビザの発行を許可していたということ。
それは、松岡洋右外務大臣が来栖三郎駐独大使に宛てた、昭和15(1940)年7月23日付「猶太(ユダヤ)避難民二対スル通過査証取扱方注意ノ件」に書かれている。
と、当時の文章を引き合いに説明されることが多い。
最近欧州方面ヨリ本邦(註:日本)経由米国大陸諸国渡航ノ猶太避難民多数アリ 現ニ日本郵船伯林(註:ベルリン)支店ニテ之等避難民ノ本邦米国間ノ輸送ヲ引受ケタル者ノミニテモ六百名ニ上リ(中略)之等ノ者ニ対シテハ行先国ノ入国許可手続ヲ完了セシ者ニ非サレハ通過査証ヲ輿ヘサル様取扱方御注意アリタシ
内容を簡単に説明すると、日本郵船ベルリン支店が引き受けた日米間航路に乗船する亡命ユダヤ人避難民が600名にもなったが、彼らに対する日本通過ビザ発給は、最終目的地たる諸国の入国許可手続を完了した者に限るように、という訓令である。
つまり、最終目的地の入国許可を得ていない者には、通過ビザ発給を発給する必要はないが、上記に書いた米国を亡命するような、最終目的地が既に決まっているものにはビザを発給しよ。という政府の命令なのである。
つまり、杉原氏は、あたかも英雄のように上に反抗してまでユダヤ人を助けたと語り継がれているが、実際は忠実にルールを守って、役人としての仕事をきちんとこなした、ということのようである。
④樋口季一郎が、注目されない理由
樋口季一郎(1888年~1970年)は、エルサレムの「ゴールデンブック」にも載っていると言われているユダヤ人にとってもよく知られた日本人だ。
1940年に杉原氏が命のビザを発給する前の、1938年3月10日、樋口氏は満州のユダヤ組織代表、カウフマンから緊急依頼を受けた。
その内容とは、オトポール(ソ満国境)にたどり着いた多数のユダヤ人が、満州への国境通過許可がもらえず、酷寒の中で餓死者、凍死者も出る事態になっており、すぐにも彼らをハルビンに通してほしいとのもの。
※当初、ユダヤ自治州をシベリアに作り労働力として使おうと思っていたが、彼らが強いのは頭のほうであり、労働力にはならなかったため、マイナス30度の世界だったオトポールに放り出したというわけ。つまり、樋口氏は、2万人ともいわれる凍死寸前のユダヤ人難民の命を救ったことになる。
上にも書かれているものは、1940年のものだが、このときは、当時に、ナチスと共協定を結んでいた日本にとっては、ユダヤ人を満州に受け入れることへの反対意見は強かった。けれども樋口はクビを覚悟で、松岡洋右満鉄総裁に直談判し、2日後にはユダヤ難民を乗せた特別列車がハルビンに到着したという。
なので、結局はその上にいた東条英機が一番偉かったのでは?という意見が最近多くなってきているような気がする。
ちなみに、樋口氏がユダヤ人を助けたのは、彼自身がユダヤ人に精通していたからともいわれている。東京外語大学でロシア語を勉強したていたこともあって、ウラジオストクに赴任。このときに、ユダヤ人の富豪の家に下宿することになり、ユダヤ人との交流が始まった。のだそう。
以下、FBのコメント
安藤さん(上海在住)
上海の虹口(今はホンコウ。昔の日本人はホンキュと)あたりから黄浦江へだんだん近づいていくとユダヤ人が昔に居留した家がたくさん残っていますよね。当時からドイツは日本人が大嫌いで(同盟国でありながら)ユダヤ人を助ける日本陸軍へさまざまな要求をしてきました。ベルリンの大島大使はドイツ好きないけすかない野郎でしたから、陸軍省へ執拗に「シベリア鉄道、南満州鉄道経由で陸軍が逃したユダヤ人をドイツへ引き渡せ」と言ってきました。正義感の、かたまりである日本陸軍は満州の関東軍にフグ作戦強化を伝えました。フグ作戦とは東ヨーロッパのユダヤ人をじゃんじゃん満州へ受け入れて、鬼のドイツから守ってあげること。
いま上海の街は焼け付くような気温(40度超え)もめずらしくないのでとても歩けませんが、秋になったら虹口あたりから黄浦江沿いに船を見ながらユダヤ人街を歩くと、昔のヨーロッパの雰囲気を味わえます。もっとも、ちょっと裏道に入ると屋台に脇毛が生えた程度の小さな店で食べ物いっぱい売っていて、食べながら歩いているヨーロッパ人がたくさんいます。当然、ドイツ人もいますからドイツの悪口は言わないほうが良いですけど。
Nakatsuさん
たしかに杉原さんは外務省の訓令に反しましたが、その訓令とは「一定の財産を持っている者にのみ旅券を発給せよ」というものです。杉原さんは訓令に反して「お金を持っていないユダヤ人に対しても旅券を発行」しました。なぜ財産が発行条件になるかといえば、財産が無いと満州経由で外国(アメリカ等)に行くことが出来ず。それら難民を満州で養わなければならなくなるためです。
浅田さん
他にもユダヤ人を沢山助けた日本人(軍人)も居ると聞きましたが絶対に表には出て来ませんね。
山形さん
外交官にはなれないけど、日本で精一杯、命の在留資格をつなぎたいと思って必死になっています。杉原領事心から尊敬しています。晩年は恵まれなかった様ですが。とりわけ、彼が発行したビザでアメリカに生き延びた人の中に原爆の発明にかかわった人がいたと聞くとき凄く複雑な思いです(映画はそこもちょこっとながら描いているのが(監督?脚色?が)すごいなと思います。)。
三田さん
まえ、駐日イスラエル大使の方と話せる機会あり、杉原氏のこと、どうおもっているか聞いたことあります。非常に誉めてて、外交官としての地位や立場が悪くなることにも華かわらず、行動したことなどシンドラーより、単純計算で、5倍かいユダヤ人助けた。スピルバーグは、むしろ杉原の映画作るべきだったなどとはなしていらっしゃいました。
神田さん
そしてそれよりも2年も前に、2万人のユダヤ人を救った人々がいます。東条英機と樋口季一郎、安江仙弘といった人々です。トルコのエトウール号の日本への恩返しのように、
樋口李一郎が助けたユダヤ人は、アメリカ政府に働きかけ、ソ連の北海道占領を阻止しました。
東條英機首相は、植民地解放でナポレオンと並び称されたでしょう。