中東とか、アラブ諸国と聞いてイメージする国はどこだろうか。日本人がそれらをイメージするとき、産油国のサウジアラビアやカタール、アラブ首長国連邦(ドバイ)、またアラブ諸国ではないが、中東のど真ん中にポツンとあるイスラム諸国ではないユダヤ国家、イスラエルなども浮かんでくるかもしれない。
この記事ではおそらく普通の日本人なら普段絶対に意識もしないだろう国、オマーン国の王室と普通の日本人女性が結婚したという夢みたいな物語について書いていこうと思う。
またこの話はテレビで定期的に取り上げられているので、ご存知の人も多いかもしれない。なので、なるべく深く掘り下げて書いてみようと思う。
まず、ひとつ言っておくけれども、このタイム―ル国王と大山清子が結婚したということは、よく話題にも上るインドネシアのスカルノ大統領と結婚したデヴィ夫人(第三夫人)とか、オーストリア=ハンガリー帝国の外交官で伯爵(Graf)でもあったハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーと結婚したクーデンホーフ光子よりも凄いことなのである。
「当時の日本人には珍しい八頭身の美女で、EUの母「クーデンホーフ光子」は本当にヨーロッパで有名なのか?」
日本では、クーデンホーフ光子や、デヴィ夫人などが注目されることが多いけれども、明らかに国王の妻と、大統領や伯爵クラスの妻とでは比べ物にはならないのは誰もが分かること。
残念ながら、ほとんどの日本人は、公爵と伯爵の違いすらわからないのが現状で、伯爵と聞けば無条件で凄いと思ってしまうのだよね…。
以下、ロイヤルファミリーにおける階級を詳しく書いてみたのでご参考に…。
「世界の王室(皇室)と、貴族における階級(爵位)と、天皇、国王(女王)、王子(皇太子)、大公、公爵、侯爵、 伯爵、子爵、男爵の違い」
それでは、そもそもこの国は一体どんな国?という部分から、オマーン国のタイムール国王と「大山清子」の間にできたブサイナ王妃の誕生まで紹介してみようと思う。
①オマーン国は、オスマン帝国に支配されなかった数少ない中東の国
まずはこの物語を知るのにオマーン国はどこ?ということを知っておかなければならない。この国は、日本人もよく訪れるドバイ(アラブ首長国連邦)の真下にある。車で数時間くらいの距離であり、ドバイ~マスカット(オマーンの首都)は、名古屋~東京と同じくらいの距離だ。2018年から日本人はオマーンの国境で e-visa が取得できるようになったので、査証的な壁もない。
オマーン滞在案内 - Embassy of Japan in the Sultanate of Oman
オマーンの人口は、250万人程度であり、四国の380万人よりも少なく、逆に四国の人口は国ができるレベルであるということもここでわかる。
またこの国の歴史は日本のようにとても古いという分けではなく、現在のようなオマーン国がきちんと成立したのは、1650年にヤアーリバ朝が誕生してからだろう。もちろん、それまでにもいくつかの王朝は存在していたけれどもね。
ヤアーリバ朝が誕生する前までは、このオマーンの地といえば、1509年にポルトガル人が渡来し、16世紀初頭にポルトガルの支配下に入っている。つまり、1509年~1650年まで、この地はポルトガルであった。
一方、現在中東にはいくつもの国があるけれども、この多くは当時、オスマン帝国の支配下であった。オマーンがオスマン帝国に組み込まれなかったのは、ポルトガルが戦ってくれたからという話もある…。
この頃、日本史でもタブーとなっている日本人女性が世界で奴隷として売られていた時期とも重なる。(ポルトガルの世界における地位はものすごかった頃)
「日本史では語られない「日本人女性の性奴隷」がポルトガル人の間で売買されていた史実と、豊臣秀吉との関係」
そんなポルトガルに支配されてしまったオマーンは、1650年にヤアーリバ朝がポルトガルからマスカットを奪回する形でオマーン全土を回復している。なので、ここから現在のオマーンという国が出来上がっていくと思うのだ。
そして上の地図のように、もともとオマーンではない東アフリカの沿岸部までもを、オマーン海洋帝国の支配下に組み込まれた。この後19世紀末まで、オマーンの商船はインド洋全域を商圏とし、東アフリカ海岸部を勢力下に置いている。
現在のスワヒリ語(ケニア)にアラビア語の語彙が多く使われているのは、この影響もあるかもしれない。
ちなみに、現在中国が事実上支配しているパキスタンのグワダル港も、1797年~1958年まで、オマーン海洋帝国の一部だった。(現在は中国企業に租借されてるけどね…)
その後、1744年に現在の王朝でもあるブーサイード朝がこのオマーン国を支配。このブーサイード朝こそが、この記事で話題にする現在の王朝である。
②ブーサイード朝について
現在のブーサイード家について書くと、この王室は現在30近くある世界の王室のひとつとして数えられ、皇室やイギリス王室よりも資産を持っているともいわれている。
「皇室は何位?世界で最もリッチな王室(個人資産別リスト)TOP10 と王宮の写真【海外の反応】」
1970年から2018年現在までのオマーン国王は、カーブース・ビン・サイード(18世紀から続くブーサイード家の第14代君主にあたる)であり、40年以上も在位している。
で、この現国王の叔母(おば)にあたるのが、まさにタイムール国王と大山清子の間にできたブサイナ王妃ということになる。そして、大山清子に関しては、まさに現国王のお祖母ちゃんである。
上の写真は、アラブ独特の民族衣装をまとい、オバマ政権時の国務長官ジョン・ケリーと会話しているところ。近代の国王を少し列挙するとこんな感じになる。
第12代=タイムール・ビン・ファイサル(在位期間=1913年10月5日~1932年2月10日)
第13代=サイード・ビン・タイムール(在位期間=1932年2月10日~1970年7月23日)
第14代=カーブース・ビン・サイード(1970年7月23日~現在)
つまりこれから書くストーリーは、オマーンの現国王からしても、自らのおじいちゃんとおばあちゃんのストーリーである。
また上の在位期間を見ても分かるように、大山清子の結婚相手であるタイムール国王が在位していた期間は、日本が日露戦争(1904年)に勝ち、大韓帝国(1910年)を併合し、まさに日本という国が世界に広く知られるようになっていた、そんな時代だったとも言える。
ちなみに上にも書いたクーデンホーフ光子は、これよりも1世代前の日露戦争以前のストーリであり、上には書かなかったエチオピア王室に嫁ぐ予定だったと言われる黒田雅子の話は、この先のことである。
(上の写真は、そのエチオピア王室関係者と黒田雅子の写真→この記事とは関係ないけれども、おまけとしてね♪)
③タイムール国王と大山清子。2人が出会ったきっかけ
タイムール国王の在位期間は、上にも書いた通り1913年10月5日~1932年2月10日である。この当時の日本は、1919年までは第一次世界大戦の特需景気などで、繊維・造船・製鉄などの製造業や、海運業が大いに発展し、米国と同様に債務国から債権国に転じるなど、日本の地位は著しく向上。1920年以降は、大戦景気の反動による不況(戦後恐慌)、また、1923年の関東大震災で東京が壊滅的になるなど、様々なことが起こっていた。けれども、日本の地位は非常に良かった頃だ。
一方、タイム―ルがオマーンの国王だった頃は、オマーン内陸部の部族集団の攻撃されたりしたことで、イギリスの援軍に助けてもらい、それが理由でイギリスからの借款に頼らざるを得ない状況に陥っていた。
当時アラブ諸国に介入していたイギリスに経済面で頼るのはいけないと分かっていたタイム―る国王はフランスから武器を購入したり、オスマン帝国からの経済援助を引き出そうとするが、失敗に終わり、すでに政治への意欲すら失っていたと言われている。
タイムール国王は、幼年期にインドのイートン校と呼ばれるマヨ・カレッジに留学していたことや、1903年には父の代理としてインドを公式訪問したことなどもあり、1918年に療養と称してインドに行き、1920年に退位を宣言する。
それほど、情勢が複雑な国での国王というのは、ストレスに苛まれる日々だったのだろう。けれども、またここにイギリスが介入。イギリスが国王を説得する形で、この退位宣言は取り消されてしまった。つまり息子のサイードにスルターン(国王)の地位を移譲しようと考えたけれども、イギリスの説得で失敗。
その後、しばらくの間オマーンとインドを行き来していたと言われている。そして、イギリスの湾岸駐在代表に宛てた1931年11月17日付の手紙で再び退位を表明し、1932年2月10日についにスルターンの地位を息子のサイードに譲位。
やっと自由の身になれたのだ。
退位後タイムールは、インドからセイロン島(スリランカ)に渡り、ビルマ、シンガポール、メッカ、ボンベイ(ムンバイ)などの土地を訪れた。そして、1935年に神戸を訪れ、その神戸のダンスホールで大山清子(当時19歳だった)と知り合い、日本への永住を決意して再び日本に渡航し、翌1936年に明石で清子と結婚式(イスラム式ではなく、日本式の三三九度)を挙げたとされている。
清子と結婚したタイムールは神戸市葺合区中尾町(現在の中央区)の邸宅に住み、清子との間に娘のブサイナ(日本名は節子)を授かるものの、タイム―ルが元国王という身分は隠して暮らしていたとされている。
けれども、1937年にサイード(譲位した当時のオマーン国王)とその弟のターリクが日本を訪問した際には、タイムールは二人を出迎えたそうだ。
また、そんな二人の円満な生活はそう長くは続かず、清子が結核にかかってしまう。(享年23年)
そんな清子は入院中の病院からたびたび抜け出したため、タイムールは自身やブサイナに結核が感染することを恐れ、ブサイナを清子の母親に預け、自身はボンベイに移り、1939年11月に清子は病死してしまう。
またこの時タイムールはボンベイに滞在していたため、清子の最期を看取ることはできなかったのだ。
1940年に日本に戻ったタイムールは清子の墓を建てた後にブサイナを連れてオマーンに帰国し、娘を第一夫人の元に預けた。と言われ、その後タイムールはボンベイに移住し、1965年に同地で没した。
また日本人の感覚では結婚というと、一生の相手は一人だけという感覚かもしれないが、タイム―ルはイスラム教徒のアラブ人であり、実際にタイムールは6度結婚し(6人の妻がいたということ)、5人の男子と1人の娘をもうけた。とも言われている。
つまり、その何人かいるうちの一人が、清子との子供であり、日本人のDNAが入っているブサイナ王女というわけなのだ。
なので、二人が愛し合った期間があったのは確かだけれども、タイム―ル国王にとっては、6人いた妻のうちの一人であり、清子にとってタイム―ルはたった一人の男性だったということになる。
以下にも詳しく書かれていた。
Oman & Japan: Unknown History オマーンと日本-知られざる友好の歴史
④ブサイナ王女について
こちらはアラビア語圏から探した写真(1940年10月5日に撮影されたもののよう)。右にいるブサイナ王妃は、日本人の普通の女の子にしか見えない。
ちなみに、ブサイナという名前を聞くと、あたかもアラビア語が分からない日本人にとっては、ブサイクな!というものを連想してしまいそうなのだけれども、このブサイナというのは、アラビア語でブーサイード朝の最後のドを女性名詞のナに変えただけである。
こちらのスクリーンショットは、1978年で43歳の頃だそう。
この大山清子さんのフルストーリーはフジテレビでも放映されていたようで、定期的に日本のテレビではこのストーリーは語られている。けれども、あまりに日本人が喜びそうなストーリーに美化されているような感じが否めないでもない。
ハッピーエンドで、いかにも日本国民がテレビとかで見て、すっきりしそうな感じの内容にもなっている。
現在は70歳以上でもあるブサイナ王女の写真はアラビア語で検索してもなかなか見つからない。もしかしたら、室内に閉じこもっているのかもしれない。
タイムール国王は見ての通り顔の彫が深いく、清子さんは、弥生顔であり、この二つのDNAを受け継いだ世界でもほとんど類を見ない王室関係者であるが故、父であるタイム―ルも、母である清子もいない人生は非常に寂しいのではないか。とも思う。
いずれにしても、国際結婚というのはいろいろな難しい問題をはらんでいるということがわかるのではないだろうか。ハーフになってしまった子供はどちらに住むか?ということを自分で選ぶことができないうえに、両親の不幸によって人生がかなり左右されてしまうとも思うからだ。
ブサイナ王女はきっとものすごく寂しかったのだと思った。
追記(2019/9の朝日新聞の記事に、ブサイナ王女の大人になった写真が公開されていたので以下にリンク)
https://www.asahi.com/articles/ASM7M5DFYM7MUHBI02C.html
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